私たちの世界は、「戦」「争」、「コ」「 」「ナ」「ウ」「 」「ル」「ス」、「S」「 」「G」「s」など様々な言葉が飛び交い、言葉はあらゆる社会、宗教、文化、メディア、ビジネスに肥大し、核がどこなのかも表さず、激烈な勢いで覆い隠す。そして複雑に張りめぐられた根は飽和している。張りめぐる根に土着した私たちには、核はどこなのか、この土着した根は何なのかなど、疑う余地もなく、私たちの一部として一体化する。つまり私たちは言葉でできていて、言葉が私たちの概念を媒介し社会の認識を形成している。しかし、この土着した言葉により、認識している私たちの世界は、真実、つまり現実と比例しているのか。覆い隠された核はどこにあるのか、存在するのか、また核とは。
身体まで振動する爆音が鳴り響き、音ともに切り替わるサイケデリックな照明。赤、青、紫、降りかかる光。ひたすら音に身を任せ、揺れ動く人々。2021年10月。友人とノイズミュージックのイベントに来ていた。溜まりに溜まった疲れやストレスを払拭できると安易に思っていた。しかしその時はなぜか、いつものイベントスペースとは一変する。揺れ動く暗闇の箱に人間が収納され、音と光のまやかしにマインドコントロールされているかの様に見えた。いつもは心地良く身体を振動する重低音も、やけに重く、重力を感じた。重力に押し潰されまいと、上を見上げると、天井に貼られた鏡越しに、私たちがいる世界を俯瞰して見ることができた。音や光に対して、皆それぞれの態度がある様に見えるが、各々異なる動きをしつつも同じ方向を向いているその様は、統一された態度だった。それは、この世界からはみ出す態度を偶然にも取ってしまった事で気付いた事だった。その時、自分が世界と少し距離を置いた位置にいる様な感覚を感じた。どこか少し、幼い頃の感覚に似た何か。
ジャック・ラカンの言う私たちの世界が、現実と乖離した象徴界であるのならば、私たちの依拠する世界は一体何なのか、国や環境、異なる文化やイデオロギー、宗教の鬩ぎ合う私たちの世界に根を張る言葉は真実なのか。また、かつてロラン・バルトが東洋の文化に見た、悟りの概念や俳句における空虚の存在。核は決して把握できず、何ものをも表しえない。俳句の空虚の中に私たちは、根源の持たぬ繰り返し、偶発的な出来事や原因のない出来事、人間のいない記憶、錨綱を離れた言語を認識するのである。と。つまり言語に媒介された認識を揺らし、引き裂き、何ものをも表しえない空虚とし、言葉の無化から出発する概念に世界を見たのではないだろうか。意味の認識を無くした俳句は、ただ、「これ!」と言って、インファンス(言葉を知らない子供)が指で指すのとそっくりの指示の仕草を復元するものであり、特別なものは何もありはしないと俳句は言う。叙情や言葉として意味の介入しえない、俳句に似た写真による記録の機能を使用し、インファンスが、「これ!」と、取り留めなく指し示す様な、掟の無い空虚な写真群により、私たちが依拠し、土着している世界を露出させる事はできないだろうか。
撮影した写真に映り込んだ「WAR」という記号。撮影した後に「WAR」として認識したこの言葉からは、私たちの一部として根を張り認識の中に存在する、現代社会の断片が否応なく映り込んでしまう。これは写真だからこその現象とも言えます。
私たちの世界とは何か。私たちの土着する世界の足元も見ず、依拠し、自らの盲目にすら気付かず、私の世界はこれだと謳う私たちの世代。
飽和し尽くした時代に産まれた私の挑戦であり、写真によるダンスです。